疲労を享楽すること。

死を迎える技法は[生を個人の有意義な人生として]物語ってくれるものであったが、そうした技法が失われることで、私たちはこの剥き出しのたんなる生を、なんとしても健康に維持しなければならなくなる。ニーチェが語ったように、神が死んだあとでは健康が女神となる。

──ビョンチョル・ハン

 

またぞろ鼻風邪気味である。普段は基本的に午後出勤なのだが、しばしば模試だとかなんとかいった行事のスタッフに朝早くから駆り出されると、否応なしに生活リズムを不規則的なものにさせられる。すると、その日の午後や翌日(もしくはその後数日)などは、顕著に疲弊している。今日もそういった日の一日だった。

「お疲れ様です」という慰労の文句がすっかり形骸化して日常的な挨拶に代用されていることからも明らかなように、我々はせいぜい薄ぼんやりとした疲労を絶えず携えて生を営んでいるのにもかかわらず、あるいはその常態化ゆえか、抜きがたく疲労に浸食された我々の存在の基本的な条件は、人たちによって正当に評価されているとは思えない(恐らく、欲情に駆られて体内から精液を「抜く」とき、我々は己の青白い疲労をも「抜い」ているのだ──新たな疲労感、ひどいと深い徒労感に見舞われつつも……)。あらゆる広告、あらゆるTV番組、YouTuberたちによる投稿動画、小うるさい店内BGMからはじまって本の帯文、電車の発車メロディ、企業内部のむなしい訓示に至るまで、私たちの社会は一分の隙もなく「元気たれ」、「健康たれ」、「明朗快活たれ」と人びとに発破をかけ続けることで自分の疲労の実態を直視することから我々を遠ざけている。

僕の勤務している塾では「元気に挨拶しよう」といった趣旨の「啓発」ポスターが各教室に貼りだされている(同じポスターは続いて比較的小さな字でご丁寧にも「挨拶ができない」のは「心の弱さのあらわれ」であるのだと教える。明言するまでもなく、「心」が弱いのは非難されるべきことであるのだ)。授業をすれば「もっと元気よく」と指導が入る。元気であること。何十年も生きた人間がいつも元気で溌剌としていることは、僕には片足を狂気に踏み入れているものとしか思えないが、もちろんある個人が正気であるか狂気であるかは社会にとって関心事ではない(「社会人」の帝国)。

ごく個人的なことをいえば、自分は中高の国語科現代文のY先生の授業(辺見庸志賀直哉井伏鱒二横光利一幸田文、内山節……)がとても好きだったが、あのだるそうな(というのは失礼かもしれないが)話しぶりや振る舞いには親近感を覚えたものである。鼻の詰まった声による「あー……」からはじまる、明朗快活で溌剌とはお世辞にも言えない、ローテンションの朴訥とした講義に、人間存在と深いところで絡み合った絶えざる疲労と共生する大人の姿を見た気がして、それはある種の癒しになった。いってみれば、一つの理想的な渡世のスタイルであった。

残念ながら、疲労と共生する人生という発想は、今のところ企業の人間にあまり広く共有されるものではないらしい。疲労と付き合うこと。これを打ち負かすのではなくて、相応の、疲労に合わせた生活を営むこと。疲労を享楽すること。そのための方法は、近代的勤労をまだ知らぬ、古典文学時代の人びとの生のスタイルに見られるのではないかと目算を立てているのだが、果たして?