幸せになれるふくふくコーヒーが約束するような「幸福」の甘やかなフレーバー

ある種の記憶は痛むが、別の種の記憶は痛まないのではない。記憶はそもそも全て痛む。

──國分功一郎

f:id:jun-1994:20231114021558j:image

寒い休日だった。15時ごろ、朝食を切らしていることを思い出しつつ2度目の目覚めを迎えてベッドから這い出し、シャワーを浴びた僕は、「パンとコーヒーとひらりんと…」を訪ねる。「パンとコーヒーとひらりんと…」とは蕎麦とピザとおはぎと夏にはかき氷も提供する愛すべき喫茶店の名であり、幸せになれるふくふくコーヒーを提供している。店の敷地内の庭をしばしば三毛猫が横切る。お察しの通り、どこにでもある喫茶店とは言いがたい、居心地のよい固有性を具えた名店である。僕はたいてい先述のコーヒーを一杯と、抹茶ババロアもしくはベーコンとトマトのピザを頂く。いまからちょうど一年ほど前になる現住所への引越しの当日、荷物の到着を待つためにこの店を初めて訪れた時から今に至るまで、僕は幸せになれるふくふくコーヒーを何杯も味わっている。

かくして幸せへの足がかりを得た僕は、京阪電車によって街へ出て、京都BALの2階に店舗を構えるPOLO Ralph Laurenへ向かう。愛用のカーディガンの袖がほつれたのでニット・ウェアを新調することにしたのだ。予め検討をつけていたセーターは残念ながら店頭に置いていなかったが、試着したうちから案外良いと判断した一着を購った。だが注意すべきは、その際に接客をしてくれた店員の女性がたいへん愛らしい顔立ちをした美人だったという事実はさて措くとしても、僕がそのセーターを予定外にも購入したことと、試着のときに彼女があげた「カッコいー!」という歓声との間には、仮に幸せになれるふくふくコーヒーが約束するような「幸福」の甘やかなフレーバーが瞬間的にほのかに介在していたとしても、実質的に何の関連性も存在しないという点である。このことは、POLO Ralph Laurenの店舗に足を踏み入れた瞬間から今回の出費が予期されたがゆえに、その後、──休日は満足のゆく夕食のために慎重に飲食店を検討することを習慣としているのにもかかわらず──先程の一食目から間を置かぬ本日の二食目を大衆向けファミリーレストランのチェーン店「ガスト」で安く済ませるという判断を下した自分にもそれほど当惑を覚えずに済んだ現実の経緯が示す通りである。

なお、ここで夕食に前後して丸善京都本店にて二冊の文庫本(その内の一冊には柄谷行人の著作を通じて以前からかすかに関心を惹かれていた柳田國男の『遠野物語』を含む)を買い求め、Elephant Factory Coffeeにて本日二度目のコーヒー・タイムを楽しんだ経過を語らずにおくのは、先週BOOK OFFで購入した國分功一郎『暇と退屈の倫理学[増補新版]』をそれなりに楽しんで読了した体験に比べれば、まだしも特筆すべき非日常性に乏しいがためである。

國分功一郎による『暇と退屈の倫理学[増補新版]』の特筆すべき面白さは、その議論の過程で引き合いに出される諸々の先行研究や先行著作で示される思考や洞察に由来するものといえよう。たとえば「退屈」の発生を問う際に参照される西田正規『人類史における定住革命』における議論や、巻末付録にて熊谷晋一郎氏との共同研究に基づいて考察される記憶と痛みとの関連性にまつわる洞察などが、個人的には印象深い。永らく外山滋比古『思考の整理学』の帯に付されていた「東大・京大で1番読まれた本」という下品極まりない宣伝惹句を不幸にも継承したことにより一気に手に取りにくくなってしまった本書といえども、それだけ学生の手に取られている(当然だが、東大生、京大生が読んでいるということは他の学生からも読まれているということだ)点に鑑みて、今日の大衆的「教養」の基準の所在を教えてくれる点においても、一読して損をするような本だとまではいえまい。

ところで本書によれば、人生はバラで飾られねばならない。そうであるならば、たとえば店先で売り物の洋服を試着するに際して美しい店員があげた歓声のうちに個人的で親密な感情の流露をあえて聴き違えたことで一人の男がつかの間の幸福を錯覚することがあったとしても、それも人間に許された愛すべき過ちの一つが犯されたに過ぎないものとして微笑とともに見逃してやることこそが、われわれのとるべき寛容の姿勢だと結論すべきではないだろうか。