小児性愛者の悲劇的な運命への同情

手回しよいことに、彼女がパンティを着けていなかったのにはびっくりした……。いくらか苦労して、ぼくは男になったのだが、想像していたような歓びと解放感はなく、その代わりに、[…]その午後に関わる一切に対する嫌悪しか感じられなかった。

──ミルチャ・カルタレス

 

13時15分に目覚まし時計をセットしていたが、一時間早く目が覚めた。幸先が良い。今日は約三ヶ月ぶりの散髪のため、叡電茶山駅(最近、名称を変更し、正式には「茶山・京都芸術大学」という駅名になった。ついでに言えば、近頃駅舎も替えたらしい。改札口が設置されていることに驚いた。)のヘアサロン「新天地」へ向かう。

このヘアサロン(僕は「美容院」、「理髪店」、「理容院」、「床屋」の違いはもとより、「ヘアサロン」というカタカナ語が漢字でどの言葉に対応するのかもよく分かっていない)はサブカル的というかアングラ的というか、みうらじゅんによく似た風貌の店主の趣味が反映された、ちょっとヒッピー的な店構えが特徴だ。京大生および京大の一部の教職員(たとえばラカン精神分析で知られるM准教授[註:2023年現在]など)の御用達らしく、正直なところ僕はそんなに馴染む感じではないのだが、清潔感はあるし、店主との会話が気取らないので最近はずっとここで切ってもらっている。

鞍馬へ向かう行きの叡山電車がやたらと混んでいたことから、紅葉シーズンらしいという会話から始まり、店主からは幾つか紅葉観光に適した寺社を紹介してもらっていたのだが、気がつけば僕らの間では市井の女性たち一般についての忌憚のない意見──つまり、彼女らに往々にして見られるユーモアの感覚の欠如や、突発的なヒステリーへの当惑の念の表明──が交換されていた。僕らは互いに「あんなただの脂肪の塊」(僕も最初誤解したのだが、単純に乳房のことを指している)に欲情してしまう不思議に共感し、法律によって欲望の発露が禁じられている小児性愛者の悲劇的な運命への同情を確認した。僕は元ガールフレンドの巨大な乳首のことを話した。店主は興味を示したが、どちらかと言えば巨大な乳輪のほうが好みだということだった。一度だけ「ヴァギナ」という単語が発せられたが、何の話をしている時のことだったか覚えていない。

その後、府立図書館で何冊か本を交換してからタイ料理屋「アジアンキッチンロータス」でとても美味しいカオマンガイを食べたのだが、これがややお淑やかなボリュームだったために、三条河原町に移って六曜社珈琲で柿のパウンドケーキをお供に檜垣立哉『日本近代思想論    技術・科学・生命』のなかの木村敏中井久夫について述べた部分を拾い読みしているうちに空腹を覚え、バスで京都駅に移動して紅茶を買い求めると、イオンモールKYOTO内のコメダ珈琲でピザとコーヒーを摂ることになる。この選択によって僕は「パンとコーヒーとひらりんと…」のピザの美味しさを確認することができたのだが、だからといってコメダ珈琲を非難したいとは思わない。22時まで店を開いてくれるだけでもありがたいと感じているからだ。それに、チキンのサンドイッチなどは悪くない。

かくして、休日は平凡に終わる。最近はマッチングアプリも大した退屈しのぎにはならない。確かに、ときどき向こうからアプローチが届くし、まれにマッチングが成立することさえある。しかし僕は何も行動をとらない。もはや、よく知りもしない相手と新たな人間関係をゼロから培ってゆこうという気持ちが起きずにいるためだ。いまやアプリの上でのアプローチは単純な電気的信号に過ぎない。それはこちらの自尊心を多少、瞬間的にくすぐり、それで終わりだ。

元ガールフレンドは、僕が他人に壁を作っていると言って批判した。そうかもしれないが、だからといって特に感慨を覚えることはない。他者に壁を築かない人間がいたとして、それは別に理想的な姿でもなんでもない。とはいえ、僕はこの手許の人生的な虚しさと疲労──それがいかに平凡なものであれ、とにかく僕にとって最も真実な状況──を心地よく享受しあえる女性を探している。そうした女性と出逢えたなら、たとえ部分的にであれ、自ずとその「壁」というやつも崩れることだろう。ただ、彼女はそうではなかったというだけの話だ。そう。おそらく、人生の虚しさこそ、人が他人と愛しあうための根底的な条件なのだろう。