ペーター・ハントケとともに

「……あなたも、周りの世界がただあなたの傍らを踊りながら通りすぎるように仕向けているように見える。あなたはいろいろな経験に巻き込まれる代わりに、それを目の前でただ上演させている。……」

──ペーター・ハントケ「長い別れのための短い手紙」

 

時間の海に揺蕩っていること。流れのない、滞留する時間の大洋に浮かぶままでいること。それが一つの理想だ。いまの時間が、きたるいかなる時間とも繋ぎ留められていないこと。一つの巨大な連繋のなかで、将来時のための手段としての意味をしかもちえないような、単純化された時間を過ごさずにいられること。統率がなされず、猫のように気ままで、微細なニュアンスに満ちて多様な陰翳をみせる日々に対して心を配ることが出来るような、そうしてふくよかな感受性でもって、そんな時の密度のなかに、敏感な官能を携えて沈潜することのできるような、濃密な幸福に浸っていること。もし人生がそんな時間の積分的な総和であったのなら、それは確かに、生まれていないことの巨大な無に対抗しうるほどに、豊穣で引き締まった充溢といえるかもしれない。

僕はしばしば己の不在の時間を惟い、僕自身を構成した無数の原子の来し方と行く末を考える。僕の体は、これら無数の原子の一時的な蝟集にすぎず、僕の身が解体されたとき、僕自身を形づくっていた小さな仲間たちは、その後、どんな旅路を迎えるのだろうかと考える。いまの僕の体内のいくらかの原子は、かつて別の誰か、あるいは何かの肉体を構成していたかもしれない。僕はその生命と肉体を共有し、重なる物質的流れのなかに棹を差している。僕にはそれら物質の発散と凝集の液状的な混ぜっ返しばかりが現実的で実際にありうる唯一のもののように思えて、人たちの存在は前景から退き、遠くのほうの、透明で、フィクショナルで、あたかもすでに滅びはじめているものであるかのように映る。人間的な現実はカーテンの裏にさあっと姿を潜め、物質の流ればかりが眼前の舞台で演じられて見える。

ペーター・ハントケの「長い別れのための短い手紙」は、僕にとって親しいこれらの離縁感をとても細密に描き留めているように思えて、近頃は薬のためか少し軽減していた、そうした現実との乖離的な感覚を、懐かしく思い出させてくれる。あと少しで、僕らのいる列島では人の時間が一つの区切りを迎える。僕は相も変わらず、あまり実感が伴わないままに、西暦の更新に何となく浮き足立つ世のほのかな熱気を、何かを人と共有することの小さな歓びとともに共有する。かたや、懐かしき離縁の感覚との旧交を温めてくれる、ペーター・ハントケとともに。

小児性愛者の悲劇的な運命への同情

手回しよいことに、彼女がパンティを着けていなかったのにはびっくりした……。いくらか苦労して、ぼくは男になったのだが、想像していたような歓びと解放感はなく、その代わりに、[…]その午後に関わる一切に対する嫌悪しか感じられなかった。

──ミルチャ・カルタレス

 

13時15分に目覚まし時計をセットしていたが、一時間早く目が覚めた。幸先が良い。今日は約三ヶ月ぶりの散髪のため、叡電茶山駅(最近、名称を変更し、正式には「茶山・京都芸術大学」という駅名になった。ついでに言えば、近頃駅舎も替えたらしい。改札口が設置されていることに驚いた。)のヘアサロン「新天地」へ向かう。

このヘアサロン(僕は「美容院」、「理髪店」、「理容院」、「床屋」の違いはもとより、「ヘアサロン」というカタカナ語が漢字でどの言葉に対応するのかもよく分かっていない)はサブカル的というかアングラ的というか、みうらじゅんによく似た風貌の店主の趣味が反映された、ちょっとヒッピー的な店構えが特徴だ。京大生および京大の一部の教職員(たとえばラカン精神分析で知られるM准教授[註:2023年現在]など)の御用達らしく、正直なところ僕はそんなに馴染む感じではないのだが、清潔感はあるし、店主との会話が気取らないので最近はずっとここで切ってもらっている。

鞍馬へ向かう行きの叡山電車がやたらと混んでいたことから、紅葉シーズンらしいという会話から始まり、店主からは幾つか紅葉観光に適した寺社を紹介してもらっていたのだが、気がつけば僕らの間では市井の女性たち一般についての忌憚のない意見──つまり、彼女らに往々にして見られるユーモアの感覚の欠如や、突発的なヒステリーへの当惑の念の表明──が交換されていた。僕らは互いに「あんなただの脂肪の塊」(僕も最初誤解したのだが、単純に乳房のことを指している)に欲情してしまう不思議に共感し、法律によって欲望の発露が禁じられている小児性愛者の悲劇的な運命への同情を確認した。僕は元ガールフレンドの巨大な乳首のことを話した。店主は興味を示したが、どちらかと言えば巨大な乳輪のほうが好みだということだった。一度だけ「ヴァギナ」という単語が発せられたが、何の話をしている時のことだったか覚えていない。

その後、府立図書館で何冊か本を交換してからタイ料理屋「アジアンキッチンロータス」でとても美味しいカオマンガイを食べたのだが、これがややお淑やかなボリュームだったために、三条河原町に移って六曜社珈琲で柿のパウンドケーキをお供に檜垣立哉『日本近代思想論    技術・科学・生命』のなかの木村敏中井久夫について述べた部分を拾い読みしているうちに空腹を覚え、バスで京都駅に移動して紅茶を買い求めると、イオンモールKYOTO内のコメダ珈琲でピザとコーヒーを摂ることになる。この選択によって僕は「パンとコーヒーとひらりんと…」のピザの美味しさを確認することができたのだが、だからといってコメダ珈琲を非難したいとは思わない。22時まで店を開いてくれるだけでもありがたいと感じているからだ。それに、チキンのサンドイッチなどは悪くない。

かくして、休日は平凡に終わる。最近はマッチングアプリも大した退屈しのぎにはならない。確かに、ときどき向こうからアプローチが届くし、まれにマッチングが成立することさえある。しかし僕は何も行動をとらない。もはや、よく知りもしない相手と新たな人間関係をゼロから培ってゆこうという気持ちが起きずにいるためだ。いまやアプリの上でのアプローチは単純な電気的信号に過ぎない。それはこちらの自尊心を多少、瞬間的にくすぐり、それで終わりだ。

元ガールフレンドは、僕が他人に壁を作っていると言って批判した。そうかもしれないが、だからといって特に感慨を覚えることはない。他者に壁を築かない人間がいたとして、それは別に理想的な姿でもなんでもない。とはいえ、僕はこの手許の人生的な虚しさと疲労──それがいかに平凡なものであれ、とにかく僕にとって最も真実な状況──を心地よく享受しあえる女性を探している。そうした女性と出逢えたなら、たとえ部分的にであれ、自ずとその「壁」というやつも崩れることだろう。ただ、彼女はそうではなかったというだけの話だ。そう。おそらく、人生の虚しさこそ、人が他人と愛しあうための根底的な条件なのだろう。

幸せになれるふくふくコーヒーが約束するような「幸福」の甘やかなフレーバー

ある種の記憶は痛むが、別の種の記憶は痛まないのではない。記憶はそもそも全て痛む。

──國分功一郎

f:id:jun-1994:20231114021558j:image

寒い休日だった。15時ごろ、朝食を切らしていることを思い出しつつ2度目の目覚めを迎えてベッドから這い出し、シャワーを浴びた僕は、「パンとコーヒーとひらりんと…」を訪ねる。「パンとコーヒーとひらりんと…」とは蕎麦とピザとおはぎと夏にはかき氷も提供する愛すべき喫茶店の名であり、幸せになれるふくふくコーヒーを提供している。店の敷地内の庭をしばしば三毛猫が横切る。お察しの通り、どこにでもある喫茶店とは言いがたい、居心地のよい固有性を具えた名店である。僕はたいてい先述のコーヒーを一杯と、抹茶ババロアもしくはベーコンとトマトのピザを頂く。いまからちょうど一年ほど前になる現住所への引越しの当日、荷物の到着を待つためにこの店を初めて訪れた時から今に至るまで、僕は幸せになれるふくふくコーヒーを何杯も味わっている。

かくして幸せへの足がかりを得た僕は、京阪電車によって街へ出て、京都BALの2階に店舗を構えるPOLO Ralph Laurenへ向かう。愛用のカーディガンの袖がほつれたのでニット・ウェアを新調することにしたのだ。予め検討をつけていたセーターは残念ながら店頭に置いていなかったが、試着したうちから案外良いと判断した一着を購った。だが注意すべきは、その際に接客をしてくれた店員の女性がたいへん愛らしい顔立ちをした美人だったという事実はさて措くとしても、僕がそのセーターを予定外にも購入したことと、試着のときに彼女があげた「カッコいー!」という歓声との間には、仮に幸せになれるふくふくコーヒーが約束するような「幸福」の甘やかなフレーバーが瞬間的にほのかに介在していたとしても、実質的に何の関連性も存在しないという点である。このことは、POLO Ralph Laurenの店舗に足を踏み入れた瞬間から今回の出費が予期されたがゆえに、その後、──休日は満足のゆく夕食のために慎重に飲食店を検討することを習慣としているのにもかかわらず──先程の一食目から間を置かぬ本日の二食目を大衆向けファミリーレストランのチェーン店「ガスト」で安く済ませるという判断を下した自分にもそれほど当惑を覚えずに済んだ現実の経緯が示す通りである。

なお、ここで夕食に前後して丸善京都本店にて二冊の文庫本(その内の一冊には柄谷行人の著作を通じて以前からかすかに関心を惹かれていた柳田國男の『遠野物語』を含む)を買い求め、Elephant Factory Coffeeにて本日二度目のコーヒー・タイムを楽しんだ経過を語らずにおくのは、先週BOOK OFFで購入した國分功一郎『暇と退屈の倫理学[増補新版]』をそれなりに楽しんで読了した体験に比べれば、まだしも特筆すべき非日常性に乏しいがためである。

國分功一郎による『暇と退屈の倫理学[増補新版]』の特筆すべき面白さは、その議論の過程で引き合いに出される諸々の先行研究や先行著作で示される思考や洞察に由来するものといえよう。たとえば「退屈」の発生を問う際に参照される西田正規『人類史における定住革命』における議論や、巻末付録にて熊谷晋一郎氏との共同研究に基づいて考察される記憶と痛みとの関連性にまつわる洞察などが、個人的には印象深い。永らく外山滋比古『思考の整理学』の帯に付されていた「東大・京大で1番読まれた本」という下品極まりない宣伝惹句を不幸にも継承したことにより一気に手に取りにくくなってしまった本書といえども、それだけ学生の手に取られている(当然だが、東大生、京大生が読んでいるということは他の学生からも読まれているということだ)点に鑑みて、今日の大衆的「教養」の基準の所在を教えてくれる点においても、一読して損をするような本だとまではいえまい。

ところで本書によれば、人生はバラで飾られねばならない。そうであるならば、たとえば店先で売り物の洋服を試着するに際して美しい店員があげた歓声のうちに個人的で親密な感情の流露をあえて聴き違えたことで一人の男がつかの間の幸福を錯覚することがあったとしても、それも人間に許された愛すべき過ちの一つが犯されたに過ぎないものとして微笑とともに見逃してやることこそが、われわれのとるべき寛容の姿勢だと結論すべきではないだろうか。

疲労を享楽すること。

死を迎える技法は[生を個人の有意義な人生として]物語ってくれるものであったが、そうした技法が失われることで、私たちはこの剥き出しのたんなる生を、なんとしても健康に維持しなければならなくなる。ニーチェが語ったように、神が死んだあとでは健康が女神となる。

──ビョンチョル・ハン

 

またぞろ鼻風邪気味である。普段は基本的に午後出勤なのだが、しばしば模試だとかなんとかいった行事のスタッフに朝早くから駆り出されると、否応なしに生活リズムを不規則的なものにさせられる。すると、その日の午後や翌日(もしくはその後数日)などは、顕著に疲弊している。今日もそういった日の一日だった。

「お疲れ様です」という慰労の文句がすっかり形骸化して日常的な挨拶に代用されていることからも明らかなように、我々はせいぜい薄ぼんやりとした疲労を絶えず携えて生を営んでいるのにもかかわらず、あるいはその常態化ゆえか、抜きがたく疲労に浸食された我々の存在の基本的な条件は、人たちによって正当に評価されているとは思えない(恐らく、欲情に駆られて体内から精液を「抜く」とき、我々は己の青白い疲労をも「抜い」ているのだ──新たな疲労感、ひどいと深い徒労感に見舞われつつも……)。あらゆる広告、あらゆるTV番組、YouTuberたちによる投稿動画、小うるさい店内BGMからはじまって本の帯文、電車の発車メロディ、企業内部のむなしい訓示に至るまで、私たちの社会は一分の隙もなく「元気たれ」、「健康たれ」、「明朗快活たれ」と人びとに発破をかけ続けることで自分の疲労の実態を直視することから我々を遠ざけている。

僕の勤務している塾では「元気に挨拶しよう」といった趣旨の「啓発」ポスターが各教室に貼りだされている(同じポスターは続いて比較的小さな字でご丁寧にも「挨拶ができない」のは「心の弱さのあらわれ」であるのだと教える。明言するまでもなく、「心」が弱いのは非難されるべきことであるのだ)。授業をすれば「もっと元気よく」と指導が入る。元気であること。何十年も生きた人間がいつも元気で溌剌としていることは、僕には片足を狂気に踏み入れているものとしか思えないが、もちろんある個人が正気であるか狂気であるかは社会にとって関心事ではない(「社会人」の帝国)。

ごく個人的なことをいえば、自分は中高の国語科現代文のY先生の授業(辺見庸志賀直哉井伏鱒二横光利一幸田文、内山節……)がとても好きだったが、あのだるそうな(というのは失礼かもしれないが)話しぶりや振る舞いには親近感を覚えたものである。鼻の詰まった声による「あー……」からはじまる、明朗快活で溌剌とはお世辞にも言えない、ローテンションの朴訥とした講義に、人間存在と深いところで絡み合った絶えざる疲労と共生する大人の姿を見た気がして、それはある種の癒しになった。いってみれば、一つの理想的な渡世のスタイルであった。

残念ながら、疲労と共生する人生という発想は、今のところ企業の人間にあまり広く共有されるものではないらしい。疲労と付き合うこと。これを打ち負かすのではなくて、相応の、疲労に合わせた生活を営むこと。疲労を享楽すること。そのための方法は、近代的勤労をまだ知らぬ、古典文学時代の人びとの生のスタイルに見られるのではないかと目算を立てているのだが、果たして?

だが友よ、諦めてはいけない。

その日    人類は思い出した

ヤツらに支配されていた恐怖を…

鳥籠の中に囚われていた屈辱を……

──諫山創

 

とにかく喉が痛い。先週、教室の最前列でやたらゲホゲホ咳をしている生徒がいたから(まずいな〜)とは危惧していたが、案の定である。それにしても最寄りの診療所は土曜日だけが耳鼻咽喉科で他は内科、またやや離れた耳鼻科は完全予約制で急な外来は診察不可といったふうに、近所はこういう喉風邪、鼻風邪を診てくれる手頃な診療所に乏しい。一体、近隣住民はこういうごく簡単な風邪の症状の際にはどう処置しているのだろう?    もしかして熱が出ないかぎり病院なんかには行かないのかしら?    しかし、発熱の際は事前に申告のうえご来院くださいとは実は新型コロナウイルス感染症流行前から一部の診療所に見られた掲示だ。病院って熱が出るから来る場所だと思っていた僕はこの掲示にたいそう驚いたものだ。その上、今回は耳鼻科不足ときたもんだ。いったい風邪というのはいい歳をした大人はひかないことになっているのだろうか。

と、考えたところで、もしかしたらそうなのかもしれない、と思う。「体調管理も仕事のうち」だとか、「休むのも仕事のうち」だとかのたまう輩が世間には跋扈し、「社会人」を代表したみたいなツラを下げて僕みたいなペーペーの若造をとっ捕まえて説教を垂れる仕儀である。なにしろ彼らは「異星人」や「半魚人」等と並んで知られる「社会人」の血統に属しているわけだから、あいにくわれわれ人間の価値の尺度は通用しないのだ。おまけに猫が猫自身を人間と勘違いして人間に命令を下すがごとく、「社会人」は「社会人」自身を人間と勘違いしてわれわれに命令を下すのだから始末に負えないものである。

いま、僕らはお互い顔も知らぬ同胞たちと「社会人」の集団に紛れて参与観察を行っている。確かに、「社会人」はいまや地球規模に拡大する巨大勢力であり、われわれは劣勢に立たされている。だが友よ、諦めてはいけない。人間はまだ絶滅してはいない。生き残ったわれわれは世界に散らばりながらネットワークを形成している。われわれは現状、生態学者であることを余儀なくされているとともにパルチザンでもあり、またスパイでもある。耐え難きを耐えし仲間たちよ、ともに闘い、われわれの明日を勝ちとろう。この通信投壜が未だ顔も知らぬ地上の同胞の手許に届くことを願っている。

あまりのバイタリティに唖然として

仕事にたいする私たちの見方は、最終的に現世での生を超えて伸びひろがってゆくことになる。どうやら私たちには、世界に爪あとを残して自分にはほかの人たちとちがうところがあることを示したいという欲求があるようだ。

──ラース・スヴェンセン

 

やはり人間っていうのは歳月の経過やその身の置かれた境遇や経験で変化するもので、変化しないのは死者だけなんですね。生きていれば、例えば年齢が変化するんですわ。というのはまあ冗談としても、29歳ってえと、大学に入ってからもう10年は優に経過しているわけで。今朝、通勤途上の踏切を渡ろうとする時にふとこの事実に思い当たりましてね、慄然としました。目の前の踏切を咄嗟に20代から30代への踏切かと錯覚しました。10年なんてあっという間でしたね。で、その29歳になったワタクシは小学生連中を相手に商売しておりますので、小学6年生……まあ12歳として、そこから同じく10年後はいつだったかと考えれば、22歳であって、ああつまりこれは僕が人生の進路をどこに取ろうか悶々と悩んだ挙句、文学部でも行って美術史でもやるかあと転学して勉強を再開することになる直前くらいのことになるわけですね。こんなことを縷々述べたところでこのごく個人的な感慨が人と共有されるわけはないのでこの辺でやめますけども、何を言いたいかといえば、人生は短く人はさっさと死ぬなあということの他には、人のものの考え方も流動的なんだなあ、ということです。

自分は上に記したように結局美術史学徒として大学と大学院を卒えたわけですけれども、作品分析の基本方針はテクスト=作品至上主義的なところがありました。つまり、作家の記述だとか個人的な伝記だとかを脇に措いて、目の前にある作品を細部まで丹念に観察して抽出しうる洞察だけが洞察の名に値すると、基本的にはそう考える発想なんですかね。とはいえ、絵というのは(特に僕の専攻した抽象絵画は)なかなか言語情報として置換しにくく──だから〈絵画〉という形式をとった造形物になっているわけですけれども──、作品外の情報もかなり手掛かりとしないことには、少なくともアカデミックな論文というのはなかなか仕上げられないので──いや仕上げられるのかもしれませんが自分にはムリだったので──、そりゃあ先行研究は当然としても、画家の伝記的事実(この辺の年で奥さんと結婚している、だとか)なり文化的潮流なりは適宜参照しました。とはいえ、心はテクスト至上主義であり、作品外情報を参照するというのは内心としては妥協策という意識。これはもう完全に蓮實重彦ロラン・バルト(かの有名な「作者の死」!)の影響で、彼らの著作を齧って手もなくアテられてしまったわけですな。愚かだねえ。

そうはいえど、やっぱり数年かけて一人の画家つまり人物に向き合うとなると、やっぱりその人物の個人的な部分、パーソナリティなり人生なりに思いを馳せないわけにはゆかんですよ。この辺のことは改めてまとめて振り返りたいなと思っているんですけれども、僕の専攻した画家などは、具象絵画から抽象絵画へと己の絵画様式を大転換させ、美術史上に残る記念碑的な作品を残すようになるのは40歳頃からなんです。作家全集(カタログ・レゾネ)を眺めてみれば、明らかに一番脂が乗っているのは40歳〜50歳代末ぐらいまでの作品。彼は80代後半まで生きたのでそれまで作品を制作し続けているわけですが、僕が論文で取り上げた、あんなエネルギーの作品を50歳で描いているっていうことに気がついたとき、なんというか、あまりのバイタリティに唖然としてやはり絵を見詰め直しました。それだけの精力、構想力、粘り強さが50歳にして残っているっていうのは、やはり非凡なことだなあと嘆息しました。

時は流れ、自分が30歳目前という、まあ、ある程度節目となる年齢に差し掛かった身になってからそんなことをふと思い返しているうちに、作品分析、作品分析とお題目のように唱えていた僕は今頃になって、研究の過程で作品や名前に触れた画家たちの具体的な人生の様相やパーソナリティに遅まきの関心を抱くようになってきたのでした。

卒論の主題にした絵。1915年-1923年頃。画家の年齢にして42歳-50歳頃の作品。

まあなんというか、我々にとってそれは住みにくい世間となりますわね

「なんかさ…だめだよ…オレ……社会的にまったく通用していない気がする……」

──福満しげゆき

 

冬の香りを運ぶ冷気がやさしく頬を撫ぜる季節となってまいりました。個人的なことを申せば──いや、ここに個人的でないことを書く日はきっと訪れないでしょうが──この季節にはいくぶんセンチメンタルな気分にさせられます。いや、実をいうと僕は年中センチメンタルな気分になっている(I'm always in a sentimental mood)ので、その点をふまえるととりたててどうというわけでもないように思われるかもしれませんが、センチメンタリティの質的差異というものはやっぱりあるものでして、つまりこの季節にはいつも生まれ故郷のつくば市の中心部の肌寒さを自ずと思い出します。いわば郷愁〈ノスタルジア〉です。つくば市の中心部、すなわち僕が小学5年生の頃に開通したつくばエクスプレスの駅の近辺には磯崎新によるかの有名な(有名であるということは大学生になって知るわけですが)「つくばセンタービル」があります。僕はこの論争的な建築物を、小学校の通学路にあったものですから毎日のように視界に収めていたので、今もなおそれなりのイムプレッションを保持したまま忘れずにいるわけですが、それはいわば僕にとって建築をめぐるタブラ・ラサに最初に書き込まれた建物となるわけです。ポストモダン建築という歴史的(特に建築史的)地層の上にようやく有りうる建築様式を僕は最初に受容してしまったわけですから、これはとんでもない倒錯になります。僕はまあまあ平凡なりに綺麗な建築物、面白い建築物は好きですが、この原初的経験が僕の建築鑑賞眼に何らかの歪曲を加えていはしないものだろうかと怪しんでなりません。

で、話は飛んで、僕はいま特にこれといった情熱もなくほぼ専ら露命を繋ぐことを目的として小学生相手に塾講師をやっているわけですけれども、いやあ中学受験なんていいもんじゃないですよね。高校受験はなんだかみんな和気藹々と一致団結してガンバっている感じがすでに、学校の連中との付き合いもそこそこにやらずもがなの受験勉強をささやかな優等生意識を多少の心の拠り所にしながら隔離されて凌ぐ中学受験生らとは異なる類いの感情的紐帯や集団性、社会性みたいなものを中学生たちの心の裡に結んでいる気がしてならないわけですが、あァこういう人らが「社会」ってやつを築いていくんだなァと思えば、まあなんというか、我々にとってそれは住みにくい世間となりますわねと、変に得心してしまうのである。悪いのは中学受験でもなく高校受験でもなく、これらを人に対立的に見せてしまう経済的、地理的差異なのだろうか、受験というのはつくづく色々なものを貧しくする厭なものだ。受験産業に搾り取られちゃいけませんね。