一切の存在と現象からなにか美しく艶やかなものを感受しうるとき

幸福と美には何かしらの関連があるのだが、それはどのようなものか──という問いかけとしてウィトゲンシュタインの文章を読むとすれば、私はこれに次のように答えたい。人生と世界があるがままで意味をもつことを開き示すのが芸術であり、人生と世界をあるがままのあり方で輝き出させる光が美だ、と。この境地においては《別の仕方でありたかった》という願望や後悔は無く、むしろ《このようにあるのだ》という安心があります。これが「美とは、まさに幸福にするもののこと」のひとつの解釈です。

──山口尚『幸福と人生の意味の哲学 なぜ私たちは生きていかねばならないのか』

 

進学塾にて小学生に学校教科としての国語を教えるということの困難を自分は完全に見誤っていたらしい事情を、この数ヶ月で骨身に沁みて教えられている。その困難の恐らく85%近くは、そもそも上記命題の「小学生に……教える」という部分に由来し、「学校教科としての国語を」という箇所は苦労のうちの高々15%程度に過ぎない。たとえば、こちらの手許の語彙を彼らに理解してもらえる範囲のものに制限することの困難がある。たとえば、彼らから風邪をもらわずにいることの困難がある。そしてまたたとえば、「口から生まれた」とはこのことかと思わせられる、関西の(就中、大阪の)やかましいがきんちょどもを授業中に静まらせることの困難がある──……

さてと彼らの相手を済ませ、ほうほうの体で帰りの電車に乗り込み吊革に摑まりながらふと隣り合わせた中年の男女らのスマートフォンを見遣ると、液晶には毒々しい色合いのゲームのプレイ画面やアニメのワンシーン、あるいはなんらかのドラマの配信映像などが映し出され、彼ら彼女らの疲れた頭脳をリフレッシュさせている場面にでくわす。僕は驚く。頭に白いものの仄見える、それなりに装いを整えたマダムが、電車内でスマートフォンでゲームに興じている姿に。子どもの遊びに付き合う場合を除いて、大人がゲームを楽しむ姿を目撃することに慣れていない僕は、この種の娯楽がいかに広範に市民権を獲得しているかを目の当たりにし、自問する。果たしてこれは、僕がさっき教えていた小学生らの──10歳になるかならぬかのうちから受験競争に放り込まれ、夜9時やら10時やらに帰宅する生活を余儀なくされている気の毒な小学生らの──行き着く未来の姿だろうか?    僕は受験のストレスから(だろうと推測するのだが)脱毛症や抜毛症に罹って頭髪を一部失くしている少年少女の姿を思い出し、スマートフォンのゲーム画面に集中するマダムの視線の来し方と行く末を、その背中越しに考える。

果たして私たちには、ほかに生きる方法はないのだろうか?    子ども時代からはじまる人生の収支は、経済生活の苦労を楽にしたり、他者に対して経済競争において優位に立つことによってその帳尻を合わせようとするほかはなく、ゆくゆくは子どもを産み育て、今度は子どもたちに経済競争のためのサーキットの上をうまい具合に廻転させる賭けのための元手を蓄えることにしか、生きる方法はないのだろうか?    

私は山口尚『幸福の人生の意味の哲学』を繙き、人生を耐えやすいものにするための手立てとして、美への感受性をふくよかにすることへの信頼を新たにした。歌人河野裕子が死の床においてさえ歌を紡ぎ、彼女自身の生に「輝き」を与えていた事例を引きつつ、著者は「美において人生は幸福という意味を得る」と証言する。私たちは自身の悲哀や諦念、空虚や幻滅でさえも美的に昇華し、享受することができる。であるならば、一切の存在と現象からなにか美しく艶やかなものを感受しうるとき、私たちは世界と独自の仕方で調和し、和解することを一つの希望にできるだろう。それこそが、〈生まれたこと〉に対し、〈生まれなかったこと〉の純粋な虚無(それもまた美しい可能性の一つだ)と釣り合うくらいの充実を、補償/保証しうるのではないか?    しかるに、もしある人が社会的・経済的成功のサーキットを駆け抜けるために、なにか精神的な複雑な価値への理解を棄却し、その身を軽くせずにはいられなかったとするならば、彼/彼女はその後、そのような生の耐えられない軽やかさを忘却することのほかに、どのようにして人生をやり過ごせばよいというのだろうか。