「……ねえ坊や、あたしの坊や、あたしがあなたを愛していないとか、愛さなかったなんて思わないでね。あなたを愛していたからこそ、もしあなたがずっと生きていたら、今のあたしにはなれなかったのよ。子供をもちながら、あるがままのこの世の中を軽蔑することなんてできないの。だって、私たちが子供を送り出したのはこの世の中なんだから。……」
──ミラン・クンデラ
やれやれ今週も明日の一日をしのいだら休日だ、と思いながら地下鉄の構内を足早に歩いていると、片隅で女が男にビンタを食らわせていた。僕はその瞬間を視界の端に捉えたし、人の肌と肌が速度を伴って接触するときにたてるあの湿った甲高い音を耳にした。破局の場面だろうか? 実に演劇的な、TVドラマ的な場面だ。たぶん男のほうは後で女の行動をこう冷めた気持ちで省みたはずだ。──あの女は、自分では真剣なつもりであったろう怒りのほどを、お茶の間に流れるような陳腐なビンタの仕草で表明するしか能のない女に過ぎなかった。あの時、まるで自分がテレビクルーでも従えているつもりでいたので、個人的で内密な感情の真実性を、月並みでありふれた所作によって自ら台無しにすることになると気づかなかったのだ、と。
今夏訃報の伝えられたチェコ生まれの小説家ミラン・クンデラの名は『存在の耐えられない軽さ』によって特に知られるが、より作品として入念に練られ、巧みな構成を持ち、また野心に満ち、かつ前作に決して劣らぬほどに近代的個人の置かれた諸状況を描ききった『不滅』こそ彼の最高傑作であると自分は思う。晩年の大江が彼の遺作『無意味の祝祭』をやたらと褒めちぎっていたのでやや自信が沮喪させられるところは無きにしも非ずだが、そして大江の云わんとするところは分からなくもないが、とりあえず『不滅』の話に戻れば、彼はこの充実した小説をある婦人の一つのふとした仕草を契機として展開させる。そこでは、複数の時間、複数の人間たちによっていくつかの仕草が共有される。そのとき、仕草は個人的経験を月並みなものに変える。今この手許に生じる固有の感情的経験を表現することは簡単なことではない。それは往々にして喜劇的なものにさえなる。しかしそもそも、固有の感情的経験などというものは存在するのだろうか。
だが、この痛み、この悲しみ、この怒りさえもが陳腐でとるに足りず、──希少性にこそ価値があるのだという原則に照らすならば──いかなる感情的経験にもほとんど価値がないのだとしたら、人は己の存在の拠り所を何に求めたらよいのだろうか。尊厳とか権利とかいうものは感情の重みに対する配慮でなかったら、何に対する配慮なのだというのだろう。